2007年03月05日

シーサー修行の日々②

沖縄に来てすぐに、念願の陶芸の仕事が見つかって、しかも陶芸に関われたらどんな雑用でもいいと思っていたのに、入った早々にシーサー作りを教えてもらって、初めて自分の作品が売れたのはその2ヶ月後に、那覇のデパートで店番をしていた時だった。

売り物になる物を作れるなんて、何年も修行してからでないと無理だと思っていたけれど、面接の時に先生が早い人で一ヶ月、遅い人で3ヶ月で売り物になる物を作れると言っていたので、なるほどと言う感じだ。 
 
初めて売れた時、たまたま自分で店番をしていて、自分の目の前で売れて、こんなに嬉しいのは生まれて初めてだと思うぐらい、嬉しかった。
ここまで嬉しいのはきっとこれが最初で最後だろうと思っていたら、やはり2作目が売れた時は、初めて売れた時ほどの感動はなかった。

結局その物産展で私の作品は全部で3つも売れ、もっとないのと言ってくれた人もいた。買ってくれた人は、「このシーサーを見てるとこっちまで笑いたくなる」と話していたので、「それ、私が作ったんです」と言うと、喜んで下さり、裏にサインを求められた。
 
思えば、私は陶芸が好きで陶芸に関われたら雑用でもどんな仕事でもいいと思っていたが、シーサー作りに回された事は本当にラッキーだったと思う。
 
一度、ロクロを教えてもらって、茶碗を作った事があるが、見た感じよりも難しく、作るのと見るのとでは全然違うと思った。
ロクロはものすごく神経を集中して作る物で、しかもそれが仕事となったら全く同じ物を何個も何個も作らないといけない、だからおおざっぱな私には向いていない。
 
勿論シーサーも同じ物を何個も作らないといけない。
初めのうちは、ただただシーサー作りが楽しくて楽しくてたまらなかったのだが、だんだん同じ物を、しかも自分のオリジナルでない、その工房に代々伝わる伝統的なシーサーを作るのは苦痛で苦痛で仕方なくなって来た。
 
正直言って、私はこの工房に代々伝わるシーサーの顔があまり好きではなかった。私が作りたい物、好きな顔は、もっと可愛らしい、ユニークなシーサーだ。
 
最初はうまくなる事で一生懸命だったのだが、半年も経てば苦痛で苦痛でたまらず、しかも私の伝統的なシーサーは作るの遅いし、いつまでたっても下手だし、しかも焼くと割れる。
焼き上がったシーサーを釜から出して、割れて売り物にならない物ばかり出来上がって、先輩から一つ一つ注意されるのはとても辛かったし、毎回反省ばかりしていたのだが、それも何ヶ月も続くと次から気を付けます、では通らなくなって来て、釜からシーサーが出てくる度にいたたまれない気持ちでいっぱいだった。
 
それでも私が伝統的シーサーを本当に好きなら、もっと残業して練習もしていただろうし、上達もしていたかもしれない。
でも私は残業の時、自分でデザインを考案したオリジナルのかわいい、ちょっと変わった自分の好きな顔のシーサーばかりを作っていたのだ。
 
幸い、この工房は残業の時、工房の道具何を使っても、どんな作品でも自由に作らせてもらう事が出来た。
これはかなり、珍しい事だと思う。先生はとてもおおらかな人だったので、こんな事が許されていたのだと思うが、他の工房ではたいていそこの工房の定番商品しか作ってはいけなくて、お弟子さんもどうしても師匠の作品の顔に似た物しか作れなくなってしまうのだが、そういう面でもこの工房で働けた事はとてもラッキーだった。
 
私は伝統的なシーサーこそ苦手だったが、オリジナルのシーサーは技術こそ未熟なものの、作った物は何故がほとんどすぐに売れたので、オリジナルには向いたいたのかもしれない。
 
とは言っても、最初はなかなか自分の個性を出す事が出来ず、作る物、作る物、作風がばらばらだった。
自分の作風が確立して来たのは。7ヶ月目ぐらいからだ。
7ヶ月目ぐらいに、オスとメスの顔だけを台に乗せて、胴体や手足などを省いた、手間の掛からない簡単なシーサーを作ってみたら、妙にかわいく出来たので、これを売り出したいと思った。
 
はっと気がつくと、よく見たら、他のシーサーもどれも何となく似通った顔をしていて、この時に初めて自分の作風と言う物を自覚する事が出来た。


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Posted by ひだまり 陽子 at 20:03│Comments(0)シーサー修行の日々
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