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Posted by TI-DA at

2007年02月22日

沖縄本島とやどかりくん

玉城村の海は、やどかりが沢山いる。
沖縄の海もいろいろあるけれど、玉城村ほどやどかりが沢山いる海は珍しい。
びっくりするぐらい大きなやどかり。かわいい小さなやどかり。
一体どこから自分の体に合った貝殻を見つけてくるのだろう。
やどかりは謎だらけ。
だから、玉城村では貝拾いはしてはいけない。
いつやどかりを貝殻と間違って拾ってしまうかもしれないから。
  
        


Posted by みかんちゃん at 11:56Comments(8)漆喰の作品

2007年02月22日

珊瑚礁

私にとっての宝の山、珊瑚を沖縄の海から沢山拾って来た。
こんなにも素晴らしく美しい天然の素材から、一体どんな作品が出来上がるのだろう・・・
想像力をかきたてられる色・形あざやかな天然のものに感謝。
渡嘉敷島は、きれいな珊瑚が沢山落ちている、宝の島。
           
             


Posted by みかんちゃん at 21:56Comments(4)素材

2007年02月23日

虹のかけら

水色、青、緑、赤・・・色々な色の壊れたガラスのかけら。
いつか何かに使おうと思っていた。そのひらめきは、ある日突然やってきた。
やどかりにほんの少し、一粒かけらを加えただけ。
それだけなのに、ガラスがきらきら光ってやどかりがすごく引き立った。
きれいなきれいな虹のかけら・・・。
私の手元に届いてくれてありがとう。
ガラスも珊瑚も貝殻も・・・いつか何かの役にたつ気がしていた。
不思議なのは、今回は緑のガラスの欠片が圧倒的に沢山売っていて、他の色は少ししか手に入らなかった。
ほんとは水色が欲しかったのに・・・。
きっと、緑のガラスが水色より役にたつ時が来るって教えてくれている気がする。
   
         

  
     



  


Posted by みかんちゃん at 15:14Comments(2)素材

2007年02月23日

外国製のシーサー

2年ぶりの沖縄本島。
那覇空港について、まっさきに行ったのが出発ロビーのお土産屋街。
私はすごく期待していた。
新しい作品が出来ていないか、あの作家さんの作品はどうなっているか・・・。
でもその期待はすぐに裏切られた。
明らかに外国製のシーサーが増えていて、お土産屋の大半が外国製のもので占められていた。
愕然となった。
中国やベトナムで作られたシーサー達。
それを作った人達は、きっと沖縄に足を踏み入れた事のない人達だろう。
本物に触れた事のない人達。沖縄の文化を生で体感した事のない人達。
しかもそれらは以前より、より派手に「売れる為」「目立つ為」だけの派手な色彩がほどこされている。
型で大量生産され、全く同じものが何個もあった。そこには手作りの良さを感じる事は出来ない。
問題なのは、そういったシーサーが安い値段で売られている為、
本当に手間暇かけて、一個一個手作りで沖縄の伝統文化を学んだ人達によって、
作られたものも安くせざるを得ないという現実。
沖縄製のものと、外国製のものを買って、それがどれほど質が違うかじっくりと眺めてほしい。
最初はどこがどう違うのか分からないかもしれない。
でも、じっくりと毎日毎日眺めていると、その品質の違いに気が付くと思う。
これらの外国製シーサーをなくすには、多少高くても必ず沖縄製のものと確かめてから買う。
それが一人一人に出来る、伝統を守る第一歩になると思う。  


Posted by みかんちゃん at 16:58Comments(8)沖縄の雑貨

2007年02月24日

桃色の貝殻

この貝が、桃色に染まる確立は100個に一個の割合だと聞いた。
私も今までこんなに鮮やかに桃色に染まったのを見た事は一度もなかった。
それが、こんなに沢山売られていてびっくりした。
黄色に染まった貝もあった。それも100個に一個の割合だと言う。
でも黄色は、なんとなくイメージに違ったので購入しなかった。
桃色や白がきれいすぎて、黄色が色あせて見えたのかもしれない。
桃色も、黄色も、これが天然の色って聞いたらみんな驚く。
着色しているのではとよく聞かれる。
私は貝殻には着色は一切しない主義。
昔は、貝の色が気に入らなくて、着色した事もあったけど、
漁業組合で働いている叔父からあんな色じゃないって指摘されて、目が醒めた。
自然の生み出したものより美しい色はない。
この桃色の貝、一体どういう巡り合わせで私の元に来てくれたのだろう。
     
           


Posted by みかんちゃん at 05:21Comments(5)素材

2007年02月24日

さかなのガラス

さかなの形のお皿に、ガラスのさかなを乗せて
まわりに虹のかけらを散りばめた。
さかなの形のお皿だけだったら、ちょっと物足りない。
ガラスのさかなだけでもちょっと物足りない。
物足りないもの同士を組み合わせるだけで、きれいなインテリアになった。
一人で力が足りなかったら、誰かの力を借りればいい。
   
            


Posted by みかんちゃん at 05:31Comments(4)ガラス

2007年02月25日

ストロベリー色のやどかり

素材も色もほぼ同じ
同じように作っても
全然ちがう顔
全然ちがう出来上がり
2個に一個は失敗作
50個に一個が名作
私でさえ失敗ばかり
簡単には作れない
そこに至るまでの過程があっても
誰が真似しても

         


Posted by みかんちゃん at 16:08Comments(4)漆喰の作品

2007年02月26日

きっぱん

みかんの宝物 きっぱん
一粒に凝縮された何十個ものみかん
手間暇かけてつくられる
小さいけど、小さいと思えない満足感
一口食べる事に幸せひろがる
柑橘類の味が口にひろがる
国際通りのすぐちかく なのに知らない人多い
私も長い間知らなかった
たまたま本で読んで知った
生まれて初めてこんなにおいしいお菓子があるんだと思った
大切な人におくりたい
     
            


Posted by みかんちゃん at 19:56Comments(0)食べ物

2007年03月05日

シーサー修行の日々①

2002年、私は沖縄に移住した。重度の沖縄病で、今、沖縄に住まないと一生後悔する、一生後悔するぐらいならどれほど辛い目に遭っても行かないよりマシだと思ったからである。
  
「沖縄=楽園=幸せになれる」と思っている人も中にはいるかもしれない。私以外にも皆同じ事を言っているが、現実はそう甘くない。幸い私は、事情があって、沖縄に本格的に移住する前に、2ヶ月沖縄に滞在する機会があったので、その時の経験から、「沖縄=楽園」ではないと言う事を身にしみて感じていた。
 
沖縄に一生住むには、相当な覚悟とお金、目標、運が必要だと思う。たまたま私には、1年間は仕事がなくても食べて行ける程度の貯金があった。陶芸をしたい、シーサーを作りたいと言う目標もあった。だから1年だけは何があっても頑張ろうと思って、引っ越しをした。

陶芸の仕事は、全くの素人の私を簡単に雇ってもらえるほど、すぐには見つからないと思っていたので、私は陶芸の工房を一軒一軒回って、どんな雑用でもいいから仕事をさせてもらおうと決意していたのだが、そんな努力をしなくても、引っ越しして1週間ほどで自宅から5分の場所に、あっさりと見つかり、そしてあっさりと採用された。
しかも工房に入ってからは、雑用どころかすぐにシーサー作りを教えてもらう事が出来た。
     
家も、普通、家賃を払わないで内地に逃げて帰ってしまう人が多い為、沖縄人の保証人二人が必要であるが、私はたまたま保証人のいらない家を見つける事が出来て、そこに住む事が出来た。

何もかも運が良かったとしか言いようがない。 
 
沖縄に移住した当初、覚悟はしていた物の、知り合いが殆どいないと言う心細さとホームシックでいっぱいになってしまい、辛くて辛くて仕方なかった。

ただ、陶芸の仕事を始めてからは、シーサー作りに夢中で朝から晩までひたすらシーサーの事を考えていて、寂しいとか考える暇もなかったし、同じ工房の人とも仲良くなれて、辛いと思う事は殆どなくなって行った。ただ毎日が楽しくて新鮮で仕方なかった。

陶芸の工房での事は数え切れないぐらいの話がある。
 
沖縄・那覇と言う場所は、本当に文化が盛んな場所だと思う。あちこちに伝統工芸を感じる場所がある。
お祭りはしょっちゅうやっている。沖縄の有名人、喜納昌吉さんの無料ライブ、沖縄の一般の人の演芸会、那覇祭りには、あの有名なビギンの無料ライブまであった。
あちこちにシーサーがあり、ウージ染めがあり、陶芸の工房があり、どこからともなく沖縄音楽が常に聴こえ、エイサーを見る機会もしょっちゅう。
 
私はエイサーが大好きなので、移住して始めてエイサーを見た時は、こんな所好きな場所に住めて本当に良かったと感激した事を覚えている。 

沖縄は、食べ物がすごくおいしい。沖縄に移住した人は、たいてい7キロから10キロは太ってしまうらしい。でも私はそれ以上に太ってしまった。
沖縄の食堂の量は、すごく多い。定食を頼むと、山盛りの野菜に、山盛りのご飯、そして必ずと言っていい程、沖縄そばの小さい物が付いて来る。それでだいたい500円から600円ぐらい。
 
ご飯がおいしい、一人暮らし=外食が多い、人がおおらか、気温が暖かい・・こう言った条件からか、沖縄に住んでいるとどうしても太ってしまう。
さすがに大台に乗った時には本当にどうしようかと思った。

私は今、沖縄にもう一度住みたいとは全く思っていない。良くも悪くも沖縄の事を知ってしまったからだ。今住んでいる場所に十分満足していると言うのも大きな要素であるが、沖縄は、旅行で行くのと、住むのとでは全く訳が違うものであると強く実感している。

沖縄に住んで良かったのは、故郷の良さを実感出来た事。
今まで、自分の故郷がそれほど良い場所であるとは思っていなかったが、一旦故郷を離れないとそれも分からなかったと思う。
 
沖縄はものすごくいい所である。私は大好きだ。素晴らしい場所だと思う。でもそれでも住みたいとはもう思わない。
私は、沖縄に一生住めるだけの覚悟と決意、運、お金がない。
元々沖縄に生まれ育って、沖縄に家族や親戚がいる人にとって、沖縄はすごくいい所で、沖縄生まれの人を羨ましく思う事もよくあったが、沖縄の人は、内地の人を羨ましく思っているらしい。
 
私は、沖縄には絶対にない、内地独特の名字である為、名刺を見せた途端に「あなたも内地の人ね~」と言われて、言われる度に「また言われた」と嫌な思いをしていて、差別された様な気分になっていたのだが、沖縄の人は、羨ましいと言う意味を込めて言っていたらしい。
 
お互いない物ねだりと言った所であろうか。  


Posted by みかんちゃん at 20:02Comments(0)シーサー修行の日々

2007年03月05日

シーサー修行の日々②

沖縄に来てすぐに、念願の陶芸の仕事が見つかって、しかも陶芸に関われたらどんな雑用でもいいと思っていたのに、入った早々にシーサー作りを教えてもらって、初めて自分の作品が売れたのはその2ヶ月後に、那覇のデパートで店番をしていた時だった。

売り物になる物を作れるなんて、何年も修行してからでないと無理だと思っていたけれど、面接の時に先生が早い人で一ヶ月、遅い人で3ヶ月で売り物になる物を作れると言っていたので、なるほどと言う感じだ。 
 
初めて売れた時、たまたま自分で店番をしていて、自分の目の前で売れて、こんなに嬉しいのは生まれて初めてだと思うぐらい、嬉しかった。
ここまで嬉しいのはきっとこれが最初で最後だろうと思っていたら、やはり2作目が売れた時は、初めて売れた時ほどの感動はなかった。

結局その物産展で私の作品は全部で3つも売れ、もっとないのと言ってくれた人もいた。買ってくれた人は、「このシーサーを見てるとこっちまで笑いたくなる」と話していたので、「それ、私が作ったんです」と言うと、喜んで下さり、裏にサインを求められた。
 
思えば、私は陶芸が好きで陶芸に関われたら雑用でもどんな仕事でもいいと思っていたが、シーサー作りに回された事は本当にラッキーだったと思う。
 
一度、ロクロを教えてもらって、茶碗を作った事があるが、見た感じよりも難しく、作るのと見るのとでは全然違うと思った。
ロクロはものすごく神経を集中して作る物で、しかもそれが仕事となったら全く同じ物を何個も何個も作らないといけない、だからおおざっぱな私には向いていない。
 
勿論シーサーも同じ物を何個も作らないといけない。
初めのうちは、ただただシーサー作りが楽しくて楽しくてたまらなかったのだが、だんだん同じ物を、しかも自分のオリジナルでない、その工房に代々伝わる伝統的なシーサーを作るのは苦痛で苦痛で仕方なくなって来た。
 
正直言って、私はこの工房に代々伝わるシーサーの顔があまり好きではなかった。私が作りたい物、好きな顔は、もっと可愛らしい、ユニークなシーサーだ。
 
最初はうまくなる事で一生懸命だったのだが、半年も経てば苦痛で苦痛でたまらず、しかも私の伝統的なシーサーは作るの遅いし、いつまでたっても下手だし、しかも焼くと割れる。
焼き上がったシーサーを釜から出して、割れて売り物にならない物ばかり出来上がって、先輩から一つ一つ注意されるのはとても辛かったし、毎回反省ばかりしていたのだが、それも何ヶ月も続くと次から気を付けます、では通らなくなって来て、釜からシーサーが出てくる度にいたたまれない気持ちでいっぱいだった。
 
それでも私が伝統的シーサーを本当に好きなら、もっと残業して練習もしていただろうし、上達もしていたかもしれない。
でも私は残業の時、自分でデザインを考案したオリジナルのかわいい、ちょっと変わった自分の好きな顔のシーサーばかりを作っていたのだ。
 
幸い、この工房は残業の時、工房の道具何を使っても、どんな作品でも自由に作らせてもらう事が出来た。
これはかなり、珍しい事だと思う。先生はとてもおおらかな人だったので、こんな事が許されていたのだと思うが、他の工房ではたいていそこの工房の定番商品しか作ってはいけなくて、お弟子さんもどうしても師匠の作品の顔に似た物しか作れなくなってしまうのだが、そういう面でもこの工房で働けた事はとてもラッキーだった。
 
私は伝統的なシーサーこそ苦手だったが、オリジナルのシーサーは技術こそ未熟なものの、作った物は何故がほとんどすぐに売れたので、オリジナルには向いたいたのかもしれない。
 
とは言っても、最初はなかなか自分の個性を出す事が出来ず、作る物、作る物、作風がばらばらだった。
自分の作風が確立して来たのは。7ヶ月目ぐらいからだ。
7ヶ月目ぐらいに、オスとメスの顔だけを台に乗せて、胴体や手足などを省いた、手間の掛からない簡単なシーサーを作ってみたら、妙にかわいく出来たので、これを売り出したいと思った。
 
はっと気がつくと、よく見たら、他のシーサーもどれも何となく似通った顔をしていて、この時に初めて自分の作風と言う物を自覚する事が出来た。  


Posted by みかんちゃん at 20:03Comments(0)シーサー修行の日々

2007年03月05日

シーサー修行の日々③

私は、伝統的なシーサーを作るのがとにかく嫌でたまらなかったので、何とか勤務時間中にも自分のオリジナルのシーサーを作れない物かと考えた。幸い、その工房では、店からの注文が来た分に関しては、オリジナルであっても勤務時間中に作っても良かったので、自分のオリジナルシーサーを売り込んで、注文をとって来る事を考えた。
 
先生にその旨を話したら、「ちょうど営業部長をさがしていた所だ」と言われ、行ってもいいよと言われたので、早速顔なじみになっていた店や、全く面識のない店、国際通り、壺屋やちむん通りのどの店でもかまわず、ただ一つでも多く注文がとれないかと思い、自分の作品を持ち歩きながら売り込んだ。
 
これで注文が取れれば、伝統的なシーサーを作る事がしばらくは解放されるし、何より自分のオリジナルの作品が一つでも多く売れるのは嬉しいし、私が伝統的なシーサーを作っても遅いし下手だし割れるから、オリジナルシーサーを作る方がこの工房に貢献出来ると思ったからだ。
 
ちなみに、伝統的なシーサーは一対3000円で卸す商品を、一日掛けてもほんの一対半しか作れず、オリジナルシーサーは、卸値が900円から1100円の物を、一日15対も作る事が出来た。

胴体や手足を省いているので、手間が掛からず、顔も可愛い感じなのでそれほど技術もいらず、不器用な私でも失敗なく早く作る事が出来た。
 
売り込みは、店の雰囲気を全く考えずに行ったので、断られる事も多かったが、気に入って沢山注文をくれたり、初めての売り込みで大体40個ぐらい注文を取る事が出来た。
特に若い女性には受けが良かった。
 
この時、作品が店に合うかどうかは、とても大切な事だと実感した。私の作品は、キティちゃんグッズなどを扱う店には本格的すぎて店の雰囲気に合わず、逆に大人の雰囲気で統一されたような店には可愛らしすぎて受け入れてもらえず、特に50才以上の年齢層の人達には受けが悪かった。
 
でもこの時に色んな人の色んな意見を聞く事が出来て、とても勉強になった。
 
このシーサーは、時期が6月だった為、夏は若い観光客が多いので、若い女性に受けて、納品してもすぐに売れたのでほっとした。
これが夏以外の季節だったらもっと売れなかったと思う。
 
そんな感じで順調に注文をとって、オリジナルシーサーも最初にデザインした物におさまらず、一個一個作る度にだんだんと顔も洗練されて来て、可愛らしくなって行った。

でもそこでぶつかったのが、その工房の土の色。
陶器の色は、焼き方、ブレンドの仕方、土の種類によって違ってくるのだが、その工房の土の色は、言い方が悪いが、正直言って、味色のない灰色だった。また質感にも味家がないのも気になった。
 
また、陶器と言うのは焼く前に色を塗るので、出せる色が限られていて、その限られた色でも、焼いてみないとどんな風に仕上がるのか分からないと言う、かなりのもどかしさがあった。
 
色を塗るにもすごく高い技術と練習が必要で、塗料の混ぜ方一つでも非常に微妙で、ここでも不器用な私は普通の人より進歩が遅くてつまづいた。  


Posted by みかんちゃん at 20:04Comments(0)シーサー修行の日々

2007年03月05日

シーサー修行の日々④

陶芸に魅力を感じなくなってしまった。
そんな時、目を付けたのが漆喰と言う素材だった。
漆喰とは、わらと石灰で出来ていて、赤瓦の屋根の補強に使われる素材であるが、沖縄では瓦職人達が、余った漆喰と瓦を使って、魔よけの為に、そして自分の作った家という証しを残す為に作り始めた物がシーサーの始まり

だから、もともとシーサーとは漆喰で作られていて、形も自由な物だ。元々架空の動物だし、どんな形でもいいし、それがシーサーの魅力でもあると思う。
 
今は、陶器で作った、決まり切った顔のシーサーを、伝統的なシーサーと一般に言っているが、それはおかしいのでは。 
シーサーの原点は漆喰のはずなんだから。
 
また、漆喰はものすごく質感がいい。何とも言えずに柔らかく味があって、自然乾燥してパステル絵の具で色を付けるから、色も形も自分の思うまま、割れる心配などせず、自由に作れる。どんな色に仕上がるという心配もいらず、自由な色で思いのまま塗る事が出来る。
 
それに私の好きな作家さんは気が付くとみんな漆喰でシーサーを作っている人達ばかりだった。
特に一番好きな作家さんのシーサーを見る度に、漆喰で作りたいなぁと言う気持ちは日増しに強くなって行った。
 
そんな気持ちで陶芸のシーサーを作っていても、当然熱は入らず、ただでさえ不器用な私がうわついた気持ちでいたら、その仕事のひどさは目に余る物があったと思う。
漆喰をやってみたい、でもまだ9ヶ月しか陶芸の修行をしていない。ここで陶芸を辞めてしまうにはあまりにも決断が早すぎないか・・まだ陶芸の事も全然分かっていないのに・・
  
と悩む日々が続いたが、ひとまず、趣味で漆喰シーサーを作ってみようと思い、漆喰や瓦の製造元を調べて、動き出して、あちこち電話して、安い漆喰の製造元を突き止めたその次の日、遅刻をして先生を怒らせてしまい、「やる気もないみたいだし、いつまでたっても定番のシーサーは作れないし、どうするか、これからも続けるか」と言われたので、「今日で辞めます」と言って私の退職は突然決まった。
 
この工房を辞める事になった物の、私はこの工房の人達には本当にかわいがってもらったと思う。
工房には17人働いていて、そのうち沖縄出身が半分、内地出身が半分、男性も女性も半分と言った感じで、年齢は私が調度真ん中ぐらいだった。
 
この工房の人達は、特に内地(本土の事)から来ている人は、6万円スタートと言う少ない給料で一人で生活していかないといけない為か、とにかくみんな気の強い人達が揃っていた。
 
普通、どこの職場でも気の強い人もいればそうでない人もいるのだと思うが、この工房の人達に関しては、みんな職人気質で、自分の作品にプライドを持っていて、それぞれ自分の世界を作り出していた。
 
だから、作品の事から、掃除の仕方、シーサー教室の講師の仕方、とにかく色々な事で何をしても不器用だ、大雑把だと言われ、毎日叱られていたが、それでもみんな、決して私の事を見捨てたり、馬鹿にしたり、陰口をたたいたり、、そういう陰湿な事は一切しないで正面から私と向き合ってくれて、何とか私を一人前のシーサー職人にしようとあれこれ助言してくれたりした。
 
残業中にはビールやおつまみを買って来てくれて、残業をしながらいつの間にか宴会になったり、仕事をいう枠を超えて、すごくかわいがってもらえた。
 
女の先輩には普段、怒られてばかりいたが、家に遊びに行ってご飯を食べさせてもらったり、男の先輩とは残業中にビールを呑みながら色々語りあったりした。
 
私がOLをしていた会社は、陰でこそこそと悪口を言う人がとても多い会社だったので、私はそんな会社に長くいた為、だんだんと人を信じる事の出来ない人間になって行ったのだが、そんな私にとって、沖縄で、あの工房で、色々な人に出会い、何の裏もない純粋な親切さや、言い方はきつくても陰でこそこそせずに正面から物を言ってくれる人達と接して行くうちに、だんだんと人を信じる心をとり戻す様になって行った。
この事は沖縄に住んで最大のよかった事だと思う。
お金では買えない大切な物を得たと思っている。
 
最後は退職が急に決まり、慌ただしかったのだが、いつも注意ばかりされていた先輩が、ビールを買って来てくれ、みんなで飲んで、傷ついた中にも救われた思いがした。
 
先生にはろくに挨拶も出来なかったが、「お別れ会はしないのか」とぽつりと言ってくれたと同僚から聞いて、先生への申し訳なさでいっぱいだった私にとって、その言葉は本当に救いになった。
 
その2.3日後、先生やお世話になった先輩数名に今までのお礼の手紙を書いて、きちんと挨拶をしてその工房をあとにした。
 
それから先生は、時たま、「あいつは元気なのか、漆喰で作っているそうだなぁ」とぽつりと言っているそうで、とても給料に見合う働きをせず迷惑ばかりかけていた私の事を心配してくれていたそうで、今でも本当に先生には感謝している。  


Posted by みかんちゃん at 20:05Comments(0)シーサー修行の日々

2007年03月05日

シーサー修行の日々⑤

陶芸の工房で働けなくなった私は、もう、漆喰をするしか道は残されていなかった。
幸い漆喰は、自然乾燥で乾かし、アクリル絵の具を使って仕上げる為、窯が要らず、独立するにも元手がほとんど掛からないのである。
 
漆喰は製造元から取り寄せると23キロで1600円。ちなみにお土産屋で売っている漆喰は、500グラムで1200円もする。
漆喰は屋根の上にふんだんに付ける物だから、絶対にそんなに高い物ではないと思っていたけれど、ここまで安いとは思わなかった。
 
元手は掛からない物の、漆喰で自己流で作ったシーサーはどれもひどい出来映えで、とても自己流ではやって行けそうもないと思い、どこか弟子を募集してないか捜す事にしたのだが、募集は見つからなく、例え見つかったとしても、自分が尊敬出来る、好きなシーサーを作っている人でないと意味がないと思った。

自分が好きでないシーサーを作る人の元で修行しても、また同じことん繰り返しで作りたくない顔のシーサーを何個も何個も仕事だからと言って作るのは耐えられないと思った。
 
それで私の一番好きなシーサー作家の人に手紙を書いてみる事にした。
いきなり弟子にして下さいと書いてはあまりに不躾なので、作品をすごく好きな事と、自分も陶器でシーサーを作っていた事と、昔の作品を見たいと言う事などを、私の小さいシーサーを同封して送った。
返事をもらえるかどうか分からなかったけど、とにかく何か行動をしなければ始まらないと思ったのだ。
 
その間も、自己流で漆喰シーサーを作っていたが、相変わらず売り物になる様な物は作れず、もういいやと思って肩の力を抜いて何も考えずに適当に作ってみたら、あれって言うような、思いがけずいい感じの作品を作れる事が出来た。
 
そうか、漆喰と土とでは素材が全く違うのに、私は土でシーサーを作るのと同じ様に作っていたからダメだったんだ、漆喰には漆喰の持ち味がある、そう気付いて、土で学んだ技術を一旦捨てて、適当にどんどん気の向くまま作って行ったら、次々にいい感じの作品が作れた。
 
形が作れたら今度は色塗りだが、これも、土では濃淡にムラのないよう、はみ出さない様に塗るのだコツだが、漆喰では焼くと言う過程がないので、はみ出しても、ムラがあってもいいじゃないか、所々薄くても濃くてもそれがかえって味になる事に気付き、適当に塗ってみたら、売り物として通用する作品に仕上げる事が出来た。  


Posted by みかんちゃん at 20:06Comments(0)シーサー修行の日々

2007年03月05日

シーサー修行の日々⑥

漆喰のコツをつかんだ私は、次々に色々なシーサーを作った。
陶芸の工房ではある程度自由に作って良かったものの。その範囲はシーサ-に留められていたが、もう一人でやっているのだから、別にシーサーだけじゃなくてもいいと気づき、ゴーヤー、やどかり、魚、きじむなー(沖縄の精霊)、ヒトデ・・・等を次々に作って行った。

陶芸の工房にいた時は、小さい可愛らしいシーサーが私の限界だったが、何故か漆喰に転向した途端、自分でも驚くぐらい色々な物が次々に作れた。
 
私は昔からお土産屋巡りが好きで、特に沖縄の雑貨は質が高く、沖縄らしい個性に溢れていて、地味すぎず、派手すぎない調度いいバランスが好きで、暇さえあればしょっ中お土産屋に行って、色々な作品を見てきた。それは、自分の作品にも生かせるヒントがないかと思っていたが、義務感だけでなく、ただ見るのが好きで楽しくて色々な人の作品をじっくり眺めていた。
 
多分、そんな事の繰り返しで沖縄に住んだ10ヶ月の間に知らず知らずのうちに感性が磨かれたのではないかと思う。
それを土では表現する事が出来なかったが、漆喰に転向した途端、今までため込んでいたマグマが吹き出すかの様に、作品となって花開いた。
自分でも、何でこんなに次々に色々な物が作れるのが不思議でならなかった。 
 
工房を辞めたのが9月3日だったが、9月末にはもう、ある程度まとまった数の作品が出来ていたので、店に持ち込んで売り込みに行った。
 
私はどの店に持ち込むかはもう決めていた。
自分の作品の雰囲気に合わない店に持ち込んでも受け入れてくれない事は分かっていたし、それに例え受け入れてくれたとしても、自分の大切な作品を、いい加減に扱う店には置きたくなかった。
 
どの店がどんな売り方をするかは、陶芸の工房での営業や、客を装ってのお土産屋巡りのついでに自分の作品がどう扱われているか見ていた。
 
卸値の何倍もの否良心的な高い値段を付けていたり、もってけドロボーみたいな売り方をしていたり、いい加減に展示していたり、そんな店には置きたくなかったし、もちろんそんなきれい事だけではやって行けないが、わざわざ始めからそんな店を選ぶ事もないと思った。
 
私がまず、絶対に置いて欲しいと思った店は、陶芸の工房の時「いい作品が出来たらまた持ってきてね」と言ってくれた店長のいる、ギャラリーDという店だ。
なかなか言えないセリフだと思う。
普通、売り込みに行くと大抵の店はあまりいい顔をしないのだが、その店長は私が下の立場であるにも関わらず、きちんと対応してくれて、「また持ってきてね」の一言はすごく嬉しくて印象に残っていた。
 
その店の展示も、一人一人の作家を大事にしていると言う感じがにじみ出ていて、この店なら私の作品もきっと大切にしてくれると思った。
 
漆喰に転向して初めての持ち込みだったので、果たして受け入れてくれるかどうか自信がなかったのだが、10種類ぐらいの作品を5個ずつぐらい、全部で56個も注文をもらえた。
こんなに注文をもらえると思ってなかったのでとても嬉しかった。
 
10月中頃には注文分を全て納品し、陶芸の工房の名前ではなく、私の本名で初めて作品に展示される事は嬉しかった。
今までは何を作っても先生の名前か、陶芸の工房の名前が表示されていたので。
 
納品したものの、果たしてそれが売れるかとにかく心配だったので、店の人も呆れるぐらいしょっちゅう覗きに行って、その度に店の人が私に気付いて挨拶されるので、遠くからこそこそと見ていたら、それでも気付かれてしまい、別に悪い事はしてないのだが、「見つかった!」なとど慌てていた。
 
そんな感じで売れ行きを心配していたが、季節が秋で、若い観光客が夏ほど多くない時期の為か、陶芸の工房の時ほど早くはない物の、少しづつ売れて行った。
 
一度店長に、売れ行きはどうかとたずね、「早くはないけど、ちょくちょく売れている」と言われ、早くはないのかと少しがっかりした様子を見せた事があった。
 
そしたら私のがっかりした様子を察した店長は、「他の人との取引は、利益を重視して出来るだけ安く仕入れようとするけど、私との取引にはあまり利益を考えていないから、好きな様にやっていいよ、もっと色んな店に売り出したらいいし、応援はするけど、規制はしない」と言われた。
 
私はこう言われて非常に複雑な気持ちになった。ひとつは、私の作品が認められて、利益になると思ったから注文をくれたのではなかったのかなと言う事と、あとひとつは、何故自分がそんな扱いをされるのか理解出来なかったからだ。
 
店長の気持ちは今でも分からないが、多分、沖縄の人ならではの行動だと思う。
今ではその気持ちは本当にありがたく、その気持ちに答えるには私がいかにいい作品を沢山作る事だと思っている。  


Posted by みかんちゃん at 20:07Comments(0)シーサー修行の日々

2007年03月05日

シーサー修行の日々⑦

次に売り込んだ店は、M堂と言う、すごく洗練された雰囲気の可愛い沖縄雑貨店だった。私はこの店の独特のおしゃれで、それでいて個性的な雰囲気が好きだったので、ぜひ自分の作品を置いて欲しいと思い、売り込みをした所、1種類ずづ、全部で7個注文をもらえた。この店での売れ方は早くて、あっという間に半分以上売れ、追加注文が来た。
 
その次に売り込んだのが、S民芸と言う店で、その店の店長とは、陶芸の工房の面接に行った時、たまたまそこの店長も来ていて、色々と立ち話をし、それ以来顔見知りになっていたので、売り込みに行ったのだが、店長は、「私の作品はかわいいんだけど高い、これじゃあ売れないよ」と言って、でもせっかく来たんだからと仕方ない様子で5個注文をくれた。

そしたらその5個がすぐに売れたので、気を良くした店長は、追加で35個注文をくれた。
私はとりあえず、10個作って先に納品して、残りの25個は2週間ぐらい後にもう一度納品した。その納品の時、先に納品した10個がほとんど売れてなかったのだ。

すると店長は、「私の作品はあまりシーサーらしくないから、こういうのはやっぱり売れない、もっと漆喰の地の色を出して欲しい」と言い、さらに、前に現物を持って行った時には写真で持って来て欲しいと言われたので、次は写真で持って行ったら「写真で見るのと現物で見るのとでは全然違う」と言ったり、ちゃんと注文を受けた数を持って行ったのに、「こんなにも沢山注文した覚えはない」等・・・色々筋違いの文句を言われ、私の扱い方もけちょんけちょんだった。
    
2週間かけて、一つ一つ丁寧に、手を抜かずに作って、得たお金は1万5千円にも満たない金額だった。
私はこの店に納品する作品を、見本より少しでもいい作品にしようと、シーサーに造花を付けてみた。でもその造花は、以前感じのいい造花が100円ショップにあったのだが、その時はなかったのだ。だから私は、その造花を求めて、沖縄中の100円ショップをバイクで何カ所もかけまわり、それでもなかったので、製造元から取り寄せしてもらって、それでやっと完成したシーサーだった。
  
お金を得る事は嫌な思いや納得いかない事もあるのは当然だと思うが、それが家賃にもならない様な、わずかな金額しか得られないとしたら、こんな思いをしてまでその店に置いてもらう価値はないと思い、それ以来その店には行っていない。
 
ある歌手が、歌手をやめた理由に、「歌が好きだから、一生歌って行きたかったから、それを商売にしてしまうとそのうち歌が大嫌いになりそうだからやめた」と言っていたが、その歌手と自分を比べるのはおごましい気もするが、私にもその気持ちの1/10ぐらいは分かった気がした。
 
趣味で作る分には作りたい時に、作りたい物を、好きなだけ作っていればそれで済むが、仕事となると同じ物を何個も何個も、作りたくなくても作らないといけない。
 
私の作品は小さい物が多いので、値段も高く設定出来ないから、利益を得る為には数を作らないといけない。
10万円稼ごうと思ったら、100個以上は作らないといけない、それを毎月継続して注文をとるなんて不可能だし、仮に注文が来たとしても、家でひたすら作っていたら、多分もう、漆喰を見るのも嫌になると思う。
 
そうならないうちに、漆喰だけで食べて行こうと言う考えは捨てる事にした。また派遣社員として事務の仕事をしながら、漆喰を作って行く事を考えた。
 
大手のお土産屋にも持ち込みをする事を考えていたが、もう、自分の作品を商売をしか見ない店には置いて欲しくないと思い、持ち込みをやめた。

そんな時、その年の元旦に、陶芸の工房で一番仲の良かった友達の関東への引っ越しを見送る為、空港に行って、友達と別れ一人涙していたその時、振り返ったら、M盛さんと言う、沖縄の言葉で文字や絵を描いている人が展示販売していた。
 
その文字や絵があまりにかわいくて、ほのぼのとしていて、一目でその作品を好きになって、喜んでいたら、本当は一枚500円なのに、無料で色々と書いてプレゼントしてくれた。
 
私も何かお礼したいと思い、そういえばたまたま私の作品のゴーヤー君を持ち歩いていた事を思い出して、プレゼントして、私も物を作る仕事をしている旨を話したら、その人の絵のキャラクターを漆喰で作って欲しいと言われ、私も喜んで引き受けた。
 
そしてそのゴーヤー君を見た隣の店の店長が、ゴーヤー君を気に入って、私の作品をその店に置かないかと言われたので、置いてもらう事になった。
 
その店長の本業は薬剤師だが、「作家との出会いを大事にしたい」と話していて、私もそういう気持ちで置いてくれるのなら大切に扱ってもらえるだろうと思って、本当にありがたい事だと思った。 

何故空港にゴーヤー君を持っていたのかと言うと、陶芸の工房の他の先輩にあげるつもりで持って行ったのだが、急にあげる気がなくなって、あげなかったから、M盛さん達の目に触れる事が出来たのだ。
このゴーヤー君は始めからこういうさだめだったのかとも思う。
 
陶芸の工房を辞めて、調度、漆喰に向けて動き出した時で、色々な偶然が積み重なってあの時の私がある訳で、何だか偶然ではない何かに動かされている気がしてならなかった。  


Posted by みかんちゃん at 20:07Comments(0)シーサー修行の日々

2007年03月05日

沖縄に住んで感じた事①

沖縄に引っ越したばかりの頃の私は、しょっちゅう観光客に間違われて、「どこから来たの」とか「いつ内地に帰るの」と聞かれる度に複雑な思いをしていたが、半年も経てばもう、観光客に間違われる事はまずなくなった。

沖縄人は彫りが深くて、色黒で、そして120%の確立で眉毛が太い。だから一目で沖縄人だと分かるが、私の顔は彫りが浅く、眉毛も薄く、色も白い方だったので、観光客に間違われても仕方のない顔だったのに、気がついたら私の顔が沖縄化してきたのだ。
 
色が黒くなったのはこんなに日差しがきついと無理ないと思うが、夏を過ぎたあたりに。ふと気が付くと明らかに眉毛が濃くなっていた。 
元々眉毛が薄かったから、その変化は余計に分かりやすかった。
 
沖縄に住む前に、沖縄関連の本、20冊ぐらい読んで、その中に、沖縄に移住した人の本もあって、沖縄移住の効能として、

①沖縄病が治る
沖縄病とは、沖縄の魅力にとりつかれて、いても経っても沖縄の事ばかり考えてしまう人の事を指す。
私自身が沖縄病である事は勿論、沖縄の良さを友達に広めまくって、みんなを沖縄病にさせている、今では立派な「沖縄病感染源」になっている。

②細かいことにクヨクヨしなくなる。

③てーげーになる。
てーげーとは沖縄の方言でアバウト、おおまかな人と言う意味。

④きーまーになる。
沖縄の方言で毛深い人と言う意味。

⑤せっかちが治る、のんびりする。

①は納得として、②や③、⑤は、沖縄に住んだぐらいで性格なんて変わるものか・・と思っていて、④の毛深くなるなんて、そんな非化学的な事絶対にありえないと思っていた。
 
だが、私の眉毛は明らかに変化し、細かい事にくよくよしなくなる事や、てーげーになる事も、この空気に包まれていたら無理ないなぁと実感している。

5月の様に、ぽかぽかとした、暑くもなく、寒くもない、気持ちいい季節って、何だか些細な事がどうでもよくなったりしないだろうか。
 
内地では5月のほんのひとときがそんな季節で、そんな気持ちになったりしていたが、沖縄ではほとんど一年中、そんな気温だ。
暖かい日は10月末まで海水浴が出来て、12月中旬まで半袖で、12月後半になると大分寒くなるが、それでも部屋は半袖で十分だ。
 
1月に桜が咲いて、さすがに真冬は海風が冷たくて冷たくて、めちゃくちゃ寒い日もあるが、だんだん寒くなって来たなぁと思えばもう3月には暖かくなって、4月からはまた泳げる。
だから沖縄の冬はほんの一瞬と言った感じだ。
その為、春と秋を実感できる時期はなくて、長い夏と、短い冬がある。

夏は、暑い日でも32,3度ぐらいしか気温が上がらず、37.8度ぐらいまで平気で上がる内地の夏よりずっと過ごしやすい。
ただ日差しはすごくきつく、沖縄の夏は、暑いと言うより、熱いと言う感じがする。
 
気温が過ごしやすい以外にも、この島には独特のオーラがある気がする。
言葉で言い表す事は難しいが、人が親切とか、気候が暖かいとか、そういう理屈以外の何かを感じる。
 
沖縄のどこを好きかと具体的に説明したら、方言が好き、エイサーが好き、シーサーが好き。沖縄料理が好き。文化(紅型、陶芸ー、ウージ染め、版画、三線・・)が好き、音楽が好き、市場のアジアンチックな雰囲気が好き、赤瓦の屋根が好き、石垣を積まれた細道が好き、食堂の雰囲気が好き、独特の看板が好き、海がきれい、あげくの果てに、車のナンバーが「沖縄」と表示されているのも好きだった・・^^;
 
私の前世が沖縄人だったのかと言う可能性も疑ってみた。
とにかく沖縄の魅力を上げればキリがない。全てにおいて沖縄は独特で、強い個性を持ってそれが統合されてその魅力をはなっている。   


Posted by みかんちゃん at 20:08Comments(0)沖縄に住んで感じた事

2007年03月05日

沖縄に住んで感じた事②

沖縄に住んで一年以上も経つと、嫌な事も、嫌な人に出会った事も確かにあったはずだが、そんな事は何の問題もなくて、それよりも、それ以上にこの島や、島の人の良さを実感する事が多くて、沖縄病が治るどころかますますこの島のとりこになって行った。
沖縄の自宅にいながら、ああ沖縄に行きたいなぁと思っていたのだからもう始末におえない。
 
沖縄に住む前は、自分は中級程度の沖縄病だと思っていたが、さすがに移住した後は中級とは言えなくて、手のほどこしようのない重傷だと自覚している。

転勤などで、仕方なく沖縄に住む事になった人や、好きで沖縄に移住した人でも、沖縄人独特のてーげー(アバウト)な所や、南国独特の時間感覚などにとまどい、沖縄人と接するのにイライラしたり、ストレスを感じる人もいるみたいだが、私は、沖縄人と気質が自分に合っていたのか、沖縄の人と接してストレスを感じる事は殆どなかった。
と言うより、私がおおざっぱすぎて沖縄人をイライラさせていたのかもしれない^^;
 
沖縄に住む前は、沖縄の人はみんな酒飲みで、お酒が強くて、てーげーで、時間感覚がアバウトな人達ばかりだと思っていたが、それは大きな誤解だった。

沖縄にも、お酒が弱い人も、几帳面な人も沢山いた。特に陶芸は、すごく細かい神経を使う仕事なので、私の出会った人は几帳面な人が多かった。

人の数だけ個性がばらばらで、ただ、全体的に一般に言われている様な人が多い傾向にあるに過ぎない。
これは当たり前の事だが、その当たり前に、改めて気付かされた。
 
でも、私が出会ったうちなーんちゅ(沖縄人)のほとんど全ての人に共通する気性だと感じた事もいくつかある。
 
①マイペースで流行に流されない事
これは、街を少し歩けば一目瞭然。一番分かりやすいのが服装。流行に敏感だなぁと言う雰囲気の人は、うちなーんちゅで探すのは困難。
内地に比べてあまり服装に気を使わない人が多く、高そうな服を着ている人は滅多にいない。
夏は殆どの人がTシャツと短パン、そして靴は島ゾーリ(沖縄産のビーチサンダル)
 
ちなみに私は移住した当初はちゃんと運動靴を履いていたが、4月にもなると暑くて靴なんか履いてられなくて、島ゾーリを買った。
でも島ゾーリは雨の日滑るので、その後滑らないゾーリを愛用し、さらに100円ショップで買ったなかなか履き心地のいいゾーリを愛用していた。一度ゾーリを履くと止められなかった。
 
高いヒールや、高そうなブランドの靴を持ってたりすると、一目で観光客だと分かる。
また、沖縄はリゾートと言うイメージが強い為か、いかにもリゾート服と言う感じの人もよくいるが、これも一目で観光客だと分かる。
 
沖縄に住んでいるとここがリゾート地だなぁと意識する事はまずなく、たまたま気温が温暖なだけで、住んでいる者にとっては地に足の付いた生活する場所。

かと思えばオバァが普通にムームーを着ていたり、とにかく誰が何をしていようが、何を着ていようが、いちいち誰も見ないし、あまり人目を気にせずにマイペースに自分のしたい事をして生きている人が多い様に思う。すごく楽だと思う。
 
②心根の優しい事
てーげーな人も、几帳面な人も、色々な人がいる中、やっぱりどんな人にも共通しているなぁと感じたのは、人を責めない、おとしいれようとしない、あざ笑わない、意地悪な人がいない事。
 
沖縄には面白い言葉があって、何か質問したり、追求しようとすると「だからよー」「なんでかねぇー」と言う。

特にこの、「なんでかねぇー」は一体、一日に何度聞いた事か・・もう空気の様な感じで聞き流していて、いつの間にか自分も「なんでかねぇー」って言ってしまっていて、私はいつの間に「なんでかねぇー」って言う様になったのかと気付いて、周りの人の「なんでかねぇー」を意識して聞いていたら、30分に一回ぐらい言っている人がいて、この人が原因だったんだ・・と気付いた。
 
「だからよー」は「だから何々・・」で使われる標準語の「だから」とは全く意味が違う。
「これは何でこうなるの?」「だからよー」「・・・」で会話が終わる。何故か何を追求しても「だからよー」と言われればそれ以上追求した方は何も言えなくなってしまう、不思議な言葉。
 
もちろん、これは同等、もしくは下の立場の人に使う言葉であって、目上の人に、「だからよー」などと言ってしまうと、とんでもなく失礼だし、ましてや仕事上の失敗を追求されて「だからよー」なんて絶対に言わないし、勿論許されるはずもない。
 
沖縄で沢山の人に出会ったが、たとえ一見どんな嫌な人に見えようとも、その中にどこか人の良さを感じるのがうちなーんちゅだと思う。
 
③沖縄を愛している事
自分の生まれ育った場所を好きな人は多いと思うが、うちなーんちゅの沖縄を愛する気持ちは特に強いんじゃないかと思う。
私が沖縄をすごく好きだと言ったら、みんな「沖縄を愛してくれて本当にありがとう」とすごく嬉しそうにする。  


Posted by みかんちゃん at 20:09Comments(0)沖縄に住んで感じた事

2007年03月05日

沖縄に住んで感じた事③

沖縄に住んで、今まで内地に住んでいて空気の様に当たり前に存在していて、その当たり前が、当たり前ではなくなって、特別だったと気が付いた事もいくつかある。
 
①お笑い番組が少ない事
私はとりたててお笑い番組が好きだとは意識していなかったが、決して嫌いではなかったものの、チャンネルをひねれば昼でも夕方でも芸人がテレビに出てて、それが普通と思って何気なく見ていたが、テレビで芸人さんが、「関西の子は小さい頃からお笑い番をよく見ているから、笑いに対するセンスがある」とか話しているのを聞く度、「お笑い番組ってそんなに多いかなぁ」と思っていたが、今は、ものすごく多かったのだと実感している。

最初の頃は「何で吉本の人がテレビに出ないの!?」と違和感さえ覚えた。
お笑い番組と定義付けなくても、関西では芸人さんが普通にコメンテーターとして番組に出ていて、普通の会話が無意識のうちに常に笑いをとる方向に持って行っている・・これが当たり前でなかったのだと初めて気が付いた。
 
ちなみに沖縄では、チャンネルをひねれば、吉本の代わりにうちなーんちゅ、お笑いの代わりに伝統文化の番組にぶつかる。
 
②うどん・日本そば・ラーメン・タコ焼き・お好み焼き屋がない
沖縄にもたまーにあるが、たいていはおいしいとは言えない。
まずいとまで行かなくても内地ほどおいしくはない。
沖縄では麺類は90%沖縄そばで占められている。
100メートル歩けば沖縄そば屋があり、ゴーヤーチャンプルーを頼んでも、クーブイリチーを頼んでも、半分ぐらいは何故か沖縄そばも付いてくる。
沖縄そばのない大衆食堂は、絶対ないと断言してもいい。
 
始めの頃は、うどんやタコ焼きがむしょうに食べたくなっていたが、半年もたてば無くて当たり前で、食べたいとは思わなくなってきた。と言うより、もうおいしいうどんやタコ焼きを食べる事はあきらめていた。
 
この島は、本当に沖縄料理がいたる所に浸透している。関西で言う粉物以上に・・
関西の中心部に行くと、関西名物の食べ物屋も沢山あるが、関西名物の食べ物だけでなく、おいしいラーメン屋もあれば、おいしいパスタの店もある。
世界の料理が食べれて、それが本場でなくても味を究めたものすごくおいしい店が沢山あって、それが普通だと思っていたが、沖縄で、沖縄料理以外のおいしい食べ物を探すのは困難なんじゃないかと思う。 
但し台湾に近い為か、中華料理はおいしい。

でも当時の私はだんだん、沖縄料理が、沖縄そばがないと生きていけないぐらい、その味の虜になっていた。
沖縄料理は見た目があまりよくない物や、内地では食べない素材を使っている為か、「沖縄料理はおいしくない」と思っている人もいるかもしれないが、大きな誤解だ。
沖縄料理はめちゃくちゃおいしい。
この亜熱帯の空気がどう関係しているか分からないけど、沖縄にいると余計に沖縄料理がおいしく感じる。
 
③いざという時に頼れる人がいない事
ある程度は覚悟していた物の、最初の頃は寂しさと不安と心細さでかなり辛かった。
無条件で親身になってくれる人がいる事の有り難さを改めて思い知らされた。
 
せっかく沖縄に住んでいるのに沖縄人の知り合いを増やさないともったいないと思っていたので、なるべく人に話しかける様にしていたから、そのせいあって、沖縄人の知り合いもだんだん増えて行った。
その時、私が沖縄にあまり知り合いがいなくて心細い旨を話すと、何とか力になってくれようとする人がいっぱいいて、うちなーんちゅの優しさを身にしみて感じる事が多かった。   


Posted by みかんちゃん at 20:10Comments(0)沖縄に住んで感じた事

2021年07月07日

14年ぶりに沖縄に想う事

14年ぶりの ブログ更新です。

今あれから 20年近く 経って、
沖縄への 今、感じる想いを 書こうと想って、、、。

ひだまりは 沖縄から どれだけ 多くの宝物を
もらったのだろう。。。

その数は もう計り知れない

年月が経って行けば 行くほど
どんどんと 沖縄からの 宝物が 増えて行くのです

絵も 沖縄がなければ 描けなかった
陶芸も もちろん 沖縄で得たものだし、
詩も、沖縄で 芸術の勉強をしたから
知らず知らずのうちに 感性が磨かれた結果、
詩を書けるようになったと 想う

毎日 毎日 作品のアイデアを探そうと、
お土産屋巡りをした日々。。。

沖縄は、朝が遅くて、夜が長い街だから、
夕方の6時まで 陶芸の工房で 働いて、
残業時間には 工房の材料 何を使っても
オリジナル作品を 作っても よかったから

ひだまりは 一生懸命
自分の作品を 模索しつづけ、

9時に、仕事から 帰って来てからは、
そのまま 国際通りにって、お土産屋めぐり

昼の3時休みにも お土産屋巡り

12時の昼休みにも、余った時間で お土産屋巡り。。。

沖縄のお土産屋は、小さな優秀な博物館です。

ほんとに あの頃は 沖縄ブームだったこともあって、
新しい作家さんや 新しい作品が
次から 次へと 出て来た時代。

ナビィの恋や、ちゅらさんが、大ヒットした直後だったから。

沖縄は青春そのものです。

ひだまりにとって、青春と言えば、沖縄です。

あの時は 29才だった。
もう おばさんだと 想ってたけど、
年ごろ だったなぁって 想う。

いつの間に、ひだまりは 年頃では なくなったのだろう。。。

今、48才だけど、
いつの間に、ひだまりは おばさんになったのだろう。。。

年をとったら とにかく 年月の経つのが 早い。

35才で 結婚したけど、35才までは、
ひだまりは 間違いなく 年ごろだった。

こんなことを 書きつつも、ひだまりには、
夢がいっぱい。

その夢も、沖縄時代が なければ、想像できないような夢。

沖縄・・・とにかく 感謝しています。

ありがとう 沖縄 (^^)/ (^^)/ (^^)/
  


Posted by みかんちゃん at 03:26Comments(0)沖縄時代を振り返って。。。

2021年11月07日

19年前の今日に。。。

19年前、29才の秋に、ひだまりは 沖縄に住むことになりました。
今日は、沖縄移住19年周年になります。

あの頃は、本当に若かった。
たいして 若くないと 想っていたけど、
今から 比べると もう 若くて若くて。。。

体力も気力も 今とは 比較にならないぐらいあった。

7日、8日、17日、18日、27日、28日に、
神さまは ひだまりに いろいろと プレゼントをくれます。

今日も、神さまから いっぱい プレゼントをもらいました。

それは、絶対に 一万円札では 買えないものです。

ひだまりにとって、一万円札で 買える幸せは、少ししかない。
お金を持っていない ひだまりでさえ、あまりないのに、
お金をいっぱい 持っている人にとっては、
どれだけ 一万円札で 買えるものが あるのだろう。。。

ひだまりの場合、お金をもたないでおこうと すればするほど、
お金以外の 大金が手に入ります。

ひだまりは、漆喰シーサーに独立して、シーサーを店に
売り出した時の、シーサーの値段は、店から
高いって 言われました。

そんなつもりなくても、やっぱり もっと安い人は いっぱいいる。

作るスピードと 売れるスピードが 同じぐらいだったから、
それでも よかったのだけど。。。

でも、もっと 安かったら、店からも 文句言われないだろうし、
客からも 喜ばれただろう。

その反省から、大阪に帰って、絵はがきを店に 売り込んだ時は、
一枚50円で 売ってました。

50円なら、店からも、高いって言われないから。

色紙は一枚 1000円。
陶芸作品は、一個400円ぐらい。

ただ、やっぱり、店に置きながらも、売れないでほしい、、、って
想っていたし、そんなに 売れなかった。

特に色紙は、4枚 店に 置かせてもらっていたけど、
一人の人が、4枚 全部 買うのだけは やめてほしいって 想ってました。

その時に書いた絵は、ぜんぶ こうのすけさんの歴史館に あげてきました。

その後、色紙や絵葉書がどうなったのか、
沖縄での シーサーが どうなっていたのか 分からないけど、

ひだまりはもう、色紙も絵はがきも 売らないのです。

陶芸作品は、今は ひだまりにとって、宝物です。

ひだまりは、次々に色々なことに 挑戦して行く代わりに、
次々に 昔 出来た事が、出来なくなります。

今は、次の生きがいはなんだろう。。。と
想っているのです。。。

それは ある日、神さまから、急に突然、
プレゼントされることでしょう。。。
  


Posted by みかんちゃん at 20:10Comments(0)沖縄時代を振り返って。。。